1972年 1972年

近代化と地域性

1972(昭和47)年、革新県政の畑和県知事の誕生だった。今でいう県民ファーストの行政は、競馬場問題も動きを活発化した。まず内馬場の公園化。競馬場が開業する前は元々、市営公園(グラウンド)だった。それが競馬場となったのだが、開催日以外は本来の憩いの場へと再整備される。73年には野球場、バレーボール、テニスコート、児童遊園地が設けられ現在の形態が出来上がった。
 61年の南浦和駅開業以降、競馬場周辺の急激な宅地開発に伴い、畑に点在していた厩舎(きゅうしゃ)が住宅地に点在するようになった。悪臭や競走馬の逃走など住民とのトラブルも多発していたが、同市野田への移転も同時に動いた。
 野田厩舎は67年の埼玉国体馬術競技のため造成され、終了後は浦和競馬のトレーニングセンターとして2倍以上に拡張されていた。ここへ74年に全面移転。その後も、好調な売り上げを背景に、新スタンド、投票、払い戻し所の増設など近代化が着々進んだ。

完成した野田厩舎(奥の建物群)とトレーニングセンター=1974年
完成した野田厩舎(奥の建物群)とトレーニングセンター=1974年




戦後の雇用貢献に力

 当時の背景に詳しいのは老舗厩舎で名トレーナー野口孝調教師(68)=全国公営競馬調教師会連合会会長。「同じ革新知事でも東京都の美濃部(亮吉)さんは公営競技を廃止した。でも畑さんは残した。もちろん財政が潤うから。でもそれだけではない」という。
 公営競技は戦後、戦災復興と災害復興のための財源だった。浦和競馬場も同じ。「それは誰でも知っている。知られていないのが雇用。空襲があった熊谷、カスリーン台風の北川辺周辺。未を亡くした遺族らを優先的に競馬が雇った。情があったんだよ。それは経営危機でも同じ。最後まで雇用維持を模索したんだ」
 「僕は浦和競馬のおかげで弁護士になれた」と言ってはばからないのは荒川岩雄県議。今ほど奨学金制度が整備されていなかった50年代から60年代初め、苦学生の優先雇用が行われた。「僕は昭和33年から中断はあったが10年くらい。一番多い時で約150人の学生がいた。本当に助かった。浦和競馬のおかげで一人前になれた人はたくさんいるよ。授業優先のシフトを組んでくれる県庁からの出向者もいた。職場に情があったね」。旧大宮市出身のアルピニスト故加藤保男さんも競馬場内の食堂でアルバイトをして遠征資金を稼いだという。
 しみじみ語る野口調教師と荒川県議。「地域の競馬場」と言われる浦和競馬の核心に触れる内容だった。

※ 2018年3月18日(日)掲載

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  • 当時、内馬場にあった噴水=1973年ころ
    当時、内馬場にあった噴水=1973年ごろ
  • 浦和競馬場内にあった児童遊園地=1973年ころ
    浦和競馬場内にあった児童遊園地=1973年ごろ

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