1949年 1949年

公営競馬の発足

一攫千金へ数万人

 「昭和23年(1948年)。私が浦和競馬に初めて行ったのは13歳の時。すごい人出だった。場内は歩くのが大変なほど」と、県営浦和競馬発足当時を思い出しながら話してくれたのは、競馬場近くで生まれ育ち、さいたま市南区大谷場上町自治会長を務める川上武夫さん(83)。競馬場には平日にも関わらず数万人が詰め掛け、道は人で数珠つなぎ、スタンドは鈴なりだった。娯楽が少ない上、一攫千金を夢見る男たちが集まり、1948年の県営競馬スタートから凄まじい人気となった。
 「コースも凄かったね。馬場内はもちろん、コースの外周も田んぼ。競馬の最中でも田んぼの中で人が普通に仕事をしてました。トロット(1頭立て馬車)競走で落馬した騎手が、田んぼに放り投げられるのを見た。10円券を握り締めて見ていたね」と笑った。

一攫千金を夢見て集まる多くの競馬ファン=1940年代
一攫千金を夢見て集まる多くの競馬ファン=1940年代

 発足当時の様子を語る上で欠かせない人物がいる。県会議員で元議長の宮崎栄治郎氏の義父、故宮崎守保氏(元県会副議長)。日本ダービーを制したサニーブライアンの馬主であり、浦和競馬場の地主の一人。浦和競馬にも最盛期には15頭前後の馬を所有していた。栄次郎氏によると「わが家は競馬場ができた時から地主の一人で今も同じ。ですから競馬場ができた時から現在までずっと深い関係がある。父の話によると、このあたりの農家は当時、きちんとした競走馬用の厩舎(きゅうしゃ)がなかったので、屋敷内の小屋で競走馬を預かっていたそうです。それがけっこうな現金収入で宮崎家も預かっていた」と言う。
 当時のエピソードを守保氏本人が書き残している。「私のところにきた老齢のみすぼらしい牝馬は心臓を患って苦しみながら死にました。かわいそうでした。私が初めて触った馬でした。あとで分かったことですが、この哀れな牝馬は昭和12年のダービーを勝ち13年の天皇賞に優勝したヒサトモのなれの果てでした。戦争をはさみ馬が少ない時代だったので肌馬になったが子を産めなかったので地方競馬にまた出ていたんです」(『地方自治とともに~宮崎守保の36年~』)
 農家の納屋から競馬場まで厩務(きゅうむ)員が手綱を引いて生活道路を移動する姿は日常風景で、「馬が逃げていることもしょっちゅうあったよ」と川上さん。スタート当初の浦和競馬は、近隣住民にとっては今以上に身近な存在だった。

  • 故宮崎守保氏と名馬ゴールドスペンサー号=1980年11月5日
    故宮崎守保氏と名馬ゴールドスペンサー号=1980年11月5日
  • 当時、埼玉新聞に掲載された浦和競馬の開催告知=1950年3月28日掲載
    当時、埼玉新聞に掲載された浦和競馬の開催告知=1950年3月28日掲載

※ 2018年3月15日(木)掲載

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  • 1949年イメージ
    1940年代当時の浦和競馬場とレース風景
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    浦和競馬場でも行われていた障害競走=1940年代
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    多くの観客が集まるパドック=1940年代
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    1940年代当時のスタンド

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