1980年 1980年

存続の危機

バブル期に新スタンド

 野田への厩舎(きゅうしゃ)移転後、埼玉新聞から「八百長」「暴動」などの見出しがピタリとなくなる。取り締まり強化に加えて高度経済成長がピークを迎えて世相が安定。右肩上がりの売り上げ増でハード、ソフト両面で競馬場の近代化が進んだ。競馬がギャンブルからレジャーへと変化してきた。1980年度の売り上げは350億円と史上最高額。県と市への分配金も11億円と信じがたい高額(2016年度は3億5千万円)を記録している。
 しかし、第2次オイルショック後の80年代に入ると一気に陰る。レジャーの多様化が逆にギャンブル離れを招く。顕著だったのが地方競馬。史上最高売り上げを記録したわずか4年後の売り上げが227億円。2億8700万円の赤字計上で存続の危機に。

 祖父から3代続く南関東競馬公認予想士の高瀬孝也さん(58)。今は息子の幸一さん(35)と2人で浦和競馬場の予想台に立つ。「私が初めて予想台に立ったのは87年。どんどん入場者も売り上げも減った時期。この仕事で大丈夫かなあって不安でしたよ」。
 ところが神風が吹いた。「バブルですよ。すごかったなあ。当たるとご祝儀もね。万札でぎっしりの紙袋を2つ下げて見せに来た人もいた。2千万円くらいあった。逆に家をなくした人も。大きなお金が動いていた時期。そのお金目当ての詐欺師も多かった」。ピークの91年度売り上げは383億5千万円を記録した。
 「でも引けるのもあっという間。それからがひどかった。予想台からは人がよく見える。身なりがどんどん悪くなる。顔つきも。この人、やばい勝負やってるなあとか分かるんです。殺伐としていたなあ。予想がはずれると『死ね』なんて落書きされて嫌な思いもしました」と、浮沈の様子を感慨深く振り返った。
 結果的にはバブルも焼け石に水。92年には22億円の積み立てがあったが、2001年には累積赤字が過去最多の25億円にまで膨れ上がり再び経営検討委員会が発足。またもや廃止論。
 苦しいのは浦和だけではなかった。03年足利、04年高崎、05年宇都宮の北関東3競馬場が次々と閉鎖。07年までに全国で10カ所が閉鎖された。
 競馬場も手をこまねいていたわけではない。合理化はもちろん、電話投票に3連単、馬券販売の新システム導入、南関東4競馬場(浦和、大井、川崎、船橋)の連携など、あの手この手を繰り出して必死の経営努力が続けられた。

※ 2018年3月19日(月)掲載

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  • 浦和競馬場の走路と内馬場=1980年代
    浦和競馬場の走路と内馬場=1980年代
  • 1980年代当時の浦和競馬場正門
    1980年代当時の浦和競馬場正門
  • レース風景=1980年代
    レース風景=1980年代
  • 浦和競馬場のスタンド・走路=1980年代
    浦和競馬場のスタンド・走路=1980年代

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