1967年 1967年

繁栄の競馬開催

 1948年(昭和23年)の県営競馬発足から50年代まで浦和競馬はすさまじい人気だった。開催日は連日満員、売上額は開催ごとに最高額を更新した。「開催6日間で純益が500万円」と報じている。現在の貨幣価値で7千万円程度。行政にとっては決して手放すことのできない打ち出の小づちとなっていった。
 「開催日は朝から人の列。まだ南浦和駅ができてなかった頃です。お客さんはみんな浦和駅から歩くわけです。数千人が。競馬場近くに住む私たちが駅に向かって歩こうとしても、人の波に押されて前に進めないほど。子ども心によく覚えているなあ…」と懐かしむのは、浦和競馬場の地主の一人で、太田窪で生まれ育った県法人会連合会事務局次長の小池光男さん(65)。
 「競馬場は物心ついた時から、なくてはならない遊び場でした。一年の300日は競馬はやってませんからね。60年代までは走路内にはまだ田んぼがたくさんありました。そこでザリガニ取りをよくやった。一番の思い出は夏の大花火大会。毎年楽しみにしてました。今も昔も同じなのが犬の散歩。住民にとってはコミュニティの場ですよ」。

レース風景(右側に当時の着順掲示板が見える)=1960年代
レース風景(右側に当時の着順掲示板が見える)=1960年代




古き良き繁栄期

 「でも、競馬開催の時は違った。子ども心にも怖い所という印象。人相のよろしくない人たちがぞろぞろ家の前を歩くわけですから。空き巣や物乞(ご)いがよくありました」。帰りの電車賃を貸してほしいとか、食べ物を恵んでくれとか、そんな人がしばしば小池さん宅にも来たという。「人が良いというか、うちだけじゃなくご近所も、おにぎりをあげたり小銭を貸したりしてました。それがね、借りっぱなしじゃなくて勝つとお金を返しに来たんですよ。義理や礼が残っていた。昔の人は違ったね」と笑った。
 戦後も10年を経て、世の中が落ち着くとお金の動きが大きくなる。60年の1日の平均馬券売り上げが1億1千万円。それが64年は2億2千万円に倍増した。すると動かずにはいられない人たちが出てくる。良からぬ人たち。良からぬ集団。50年代後半から埼玉新聞には「八百長したと恐喝」「ファン騒ぐ投石、座り込み」などの見出しが見え始め、60年代に入ると「馬に興奮剤を注射 いもづる式に逮捕」「八百長レースに手入れ 馬主ら六人逮捕」と事件に発展していく。そして68年7月30日大騒動が起きる。

※ 2018年3月16日(金)掲載

画像をクリックすると拡大表示します。

  • 1967年イメージ
    ゲート入りの様子と多くのファンが集まる浦和競馬場=1960年代
  • 1967年イメージ
    1960年代当時のパドック=1960年代

NEXT

1968年 1967年

混乱と暴動