1948年 1948年

黎明期の競馬

1948年(昭和23年)7月、新競馬法制定によって地方公共団体主催の競馬としてスタートした浦和競馬場が今年(2018年)、70周年を迎える。JR浦和駅から徒歩でも15分、住宅街のど真ん中にある全国でもまれな競馬場。内馬場内は芝生広場にソフトボール場、ジョギングコースなどが整備され、開催日以外は市民の憩いの場。広域避難所にも指定され、ヘリポートや防災倉庫が完備され、いざという時の頼れる存在となっている。ギャンブル場から総合レジャー施設へ。地域コミュニティにすっかり溶け込んでいる「わが街の競馬場」。しかし誕生から今日まで一本道だったわけではない。70年を振り返るとともに、「これからの浦和競馬」を展望する。

秩父競馬をはじめ、川越競馬に熊谷競馬、大宮競馬、入間競馬、川口競馬、本庄競馬、鴻巣競馬、粕壁競馬と、昭和初期の県内は競馬場だらけ。農耕馬を使った草競馬が盛んな土地柄だった。やがてそれは軍馬へと変わり、1939年(昭和14年)には軍馬保護の名目で地方競馬規則が制定され草競馬は淘汰(とうた)されていった。
 しかし戦後の混乱期、殺伐とした世情を背景に、一獲千金を夢見る男たちの娯楽として草競馬のスタートは早かった。46年には県内でも馬匹連合会主催で粕壁(春日部)などで始まり、浦和では売れ行き不振だった粕壁競馬が移転する形で46年10月2日、現在の競馬場とほぼ同じ大谷場地区の市営公園(グラウンド)で始まった。3日付の埼玉新聞は「秋晴れの二日、雲一つない競馬日和と省線浦和駅徒歩で十分という好条件にも恵まれ早朝から押し寄せたファンは万余を数え…」と報じている。

  • 1949年ごろの埼玉新聞記事
    1946年の埼玉新聞記事





戦後復興の財源捻出

浦和でいち早く競馬開催が実現した背景ははっきりしている。戦後の復興財源捻出。特に当時の浦和市は売り上げの一部を新制中学校の建設資金として確保ようと素早く動いた。46年11月、地方競馬法が制定され、開催権が絞られると大宮市との誘致争いとなった。浦和市史によれば、風紀悪化を心配する地元の反対を押し切る形で、「浦和市では市議会に実行員会を設けるなど、市長、議会が熱心な活動により昭和22年7月に招致に成功した」と振り返っている。
 草競馬が行われていた大谷場に同年9月、正式な浦和競馬場が着工。48年4月17日、地方競馬法の下、県馬匹組合連合会主催の第1回浦和競馬が開催された。20日付の埼玉新聞では「松井市長がその地位をかけて実現した浦和競馬場の第1回競馬は十七日を初日として開かれ新装の馬場には近隣からのファン正午まで七萬」と写真入りの記事が掲載されている。娯楽のない時代の盛況ぶりが分かる。闇競馬を経て法律にのっとった県内初の"近代競馬"がこうしてスタートした。

浦和競馬場
公営競馬開催以前に撮影された浦和競馬場=1946年



 ところが、そのわずか3カ月後の同年7月、地方競馬法が廃止され競馬法が制定される。同法は、競馬は都道府県及び災害(戦災)指定自治体のみが主催できるとし、競馬はすべて「公営」となった。浦和競馬は、競馬場施設も含め、県が馬匹組合連合会の資産(負債3千万円)のすべてを引き継ぎ、ここに県内初の公営競技場として現在の浦和競馬場が誕生した。
 現在の価値で年間億単位の収入を当て込んでいた浦和市の落胆と混乱ぶりは激しく、「財政に四、五百万円の影響を及ぼし看過できない」と、浦和市史、浦和市議会史に記録が残る。ただし3年後、所在自治体にも開催権が認められ、浦和市(現さいたま市)の開催につながっている。

※ 2018年3月14日(水)掲載

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