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地域とともに70年

地域とともに70年

~駆け続ける浦和競馬~

誕生から今日まで一本道だったわけではない。
埼玉新聞など当時の資料や関係者の
話から70年を振り返るとともに、
「これからの浦和競馬」についてお話します。

1948年
  • 黎明期の競馬

  • 黎明期の競馬

    草競馬、県馬匹組合連合会主催の競馬を経て、現在の競馬法に則った“公営の浦和競馬”がスタートする。公営競馬の初開催が今に続く浦和競馬の原点である。ことし(2018年)9月に70年の節目を迎えるが、ここでは、公営競馬となる前の浦和競馬についてお伝えする。

  • 公営競馬開催以前に撮影された浦和競馬場=1946年

1949年
  • 公営競馬の発足

  • 公営競馬の発足

    1948年(昭和23年)7月、新競馬法制定によって地方公共団体主催の競馬がスタートした浦和競馬場。当時、きちんとした競走馬用の厩舎(きゅうしゃ)がなかったため、周辺の農家が屋敷内の小屋で競走馬を預かっていたりもしていた。そんなスタート当初の浦和競馬は、近隣住民にとっては今以上に身近な存在なのであった。

  • 田んぼが残る浦和競馬場でのトロットレース風景=1948年ごろ

1967年
  • 繁栄の競馬開催

  • 繁栄の競馬開催

    1948年の県営競馬発足から50年代まで浦和競馬はすさまじい人気だった。開催日は連日満員、売上額は開催ごとに最高額を更新した。「開催6日間で純益が500万円」と報じている。現在の貨幣価値で7千万円程度。行政にとっては決して手放すことのできない打ち出の小槌となっていった。

  • 立すいの余地もないほどファンで埋まった浦和競馬場=1960年

1968年
  • 混乱と暴動

  • 混乱と暴動

    1968年7月30日、浦和競馬場で大騒動が起きた。レースの経過と配当金額に不審があるとファンの一部が騒ぎ、数百人が払戻所や投票所を襲撃、投石、放火して1700万円を強奪し、32人が検挙された。機動隊が何百人もやって来て。騒ぎは夜中まで続いた。

  • 浦和競馬場での暴動を報じた1968年7月31日付の埼玉新聞

1972年
  • 近代化と地域性

  • 近代化と地域性

    1972年は革新県政の畑和県知事の誕生だった。今でいう県民ファーストの行政は、競馬場問題も動きを活発化させた。まず内馬場の公園化。73年には野球場、バレーボール、テニスコート、児童遊園地が設けられ現在の形態が出来上がっていった。

  • 完成した野田厩舎(奥の建物群)とトレーニングセンター=1974年

1980年
  • 存続の危機

  • 存続の危機

    右肩上がりの売上増に押されてハード、ソフト両面で競馬場の近代化が進んだ。1980年度の売上は350億円と史上最高額を記録した。しかし、第2次オイルショック後の80年代に入ると一気に陰るのであった。

  • 新3号スタンド完成前の浦和競馬場=1990年

2009年
  • 危機からの脱出

  • 危機からの脱出

    「ことし赤字なら廃止」「あと1年もつか」などとささやかれる年が続いたが、2006年の南関東4場のネット馬券発売、賞金アップなど必死の経営努力が実り、05年度に単年度黒字を出し、コツコツ努力を重ねて09年度には累積赤字解消までもってきたのであった。

  • WINS浦和で発売のJRAレースはビクトリービジョンで放映され多くのファンが観戦する=浦和競馬場

2018年
  • 今後の展望

  • 今後の展望

    幾度の存続の危機を乗り越えてきたのは、多くのファン、地域から愛され支持され続けてきたから。10年後、20年後、100周年へ。同組合事務方トップの高山次郎副管理者に浦和競馬場の将来を語ってもらった。

  • 来年完成予定の新2号スタンドの完成予想図。スポーツエンターテイメントにまた一歩近づく

背景
  •  100年後も地域の皆さんに寄り添い、
    地域の皆さんとともにある、
    安全安心で楽しい浦和競馬場であり続けたい。